文政七年(1824)秋、一字庵田上菊舎尼は、今生の暇乞いに高齢を顧みず、
生誕地田耕に長府から歩いて帰ってきました。
中河内の庄屋村田儀兵衛(蓁々園桃葉)は新しい炉をしつらえて大喜びで
菊舎を迎えました。
このとき菊舎は二見形文台を桃葉に贈り、二代目一字庵を立机させました。
爾来、分派の時期もありましたが、美濃派道統の力添えもあり、
十一代の現在まで脈々と文台が引き継がれています。
昭和32年春、一字庵八世を継いだ福澄風浪子が、菊舎を世に広く顕彰したいと
堅く心に決められて、地区内外の人々に呼びかけられ多くの賛同を得て、
菊舎顕彰会が発足しました。
このとき田耕小学校校庭に「故郷や名もおもひ出す草の花」の句碑が建立
されました。
その除幕式は、山口の東桃園、下関の西尾桃支、黒井の来見田鬼豊などの
多くの来賓、俳人が出席して賑やかに催されました。
そのときの句会から、「山口県知事杯」「町長杯」が出され、
「一字庵杯」とともに今に伝えられて、毎年の菊舎顕彰俳句大会に
花を添え、俳句愛好者の励みとなっています。
(現在は、県知事杯賞・一字庵賞・教育長賞・山口朝日放送賞・
選者特選賞・下関市長賞などになっています。)
その後も代々の文台継承者を中心に、菊舎顕彰俳句大会などを催し、
地道な活動を続けています。
(-生誕二百五十年記念-田上菊舎顕彰の歩み)より
初世 一字庵菊舎 (田上 道) 杣地 (無量寿の宝の山や錦時)
二世 蓁々園桃葉 (村田儀兵衛) 中河内(月花の世や寒からず暑からず)
三世 好文亭里遊 (和田久之丞) 朝生 ( 美しや世を一面に六つの花)
四世 涼雲下奇峰 (村田林蔵) 中河内(蓮咲くや月雪花に楽しけれ)
五世 曙華園歌星 (山田亦五郎) 上太田(桜かな明けた夜でなし雲でなし)
六世 里 遊 (福澄十蔵) 原 (起されて辿らん道の朧影)
七世 梅渓舎芳水 (溝江政次郎) 市庭 (月笠に培いし菊のかおりけり)
八世 風浪子 (福澄十郎) 原 (啓蟄や我は寝たきり三年越し)
九世 虹 雨 (古川 清) 大庭 (暴れ梅雨音たて墜ちし我が生涯)
十世 帆 江 (福田春枝) 五千原(菊活けて生涯長州訛なる)
十一世 岡 昌子 市庭 (爪立ってとる十六夜の棚のもの)