(平成29年7月15日)

田上菊舎様

 

 先日大阪で開催されたハンセン病フォーラム「それでも人生にイエス、か?」に参加してきました。フォーラムには、「あん」(原作・ドリアン助川)というハンセン病をテーマにした映画に出演した樹木希林もゲストとして参加していました。

 

  フォーラムの主催者はFIWC(フレンズインターナショナルワークキャンプ)関西委員会という団体で、私も40年前の学生時代にこのFIWCにキャンパーとして参加していました。フォーラム参加者の名簿に、当時一緒にハンセン病の療養所でワークキャンプをした懐かしい名前を見つけ、老い先短いこの身、死ぬ前にもう一度彼に会っておこうかと、丁度大阪に用事があったのでついでにフォーラムを覗いてみた次第です。

 

 会場には彼の他にも懐かしい先輩の方々も多くおられ、当時の記憶がまざまざと蘇ってきて感慨深いものがありました。FIWC(関西委員会・関東委員会・九州委員会などがある)は現役の学生が中心になって活動していますが、40年も50年も前に卒業した先輩たちの多くが今も連綿としてこの活動に携わっておられることに頭の下がる思いがいたしました。

 

 田上菊舎様、ハンセン病(らい病)はその症状の醜さから古来より差別・偏見の対象とされてきました。当然貴女の生きた江戸時代にも多くの患者がいたことと思います。以前にも書いた句集「寒林」の著者もそうですし、「いのちの初夜」の著者・北条民雄もそうです。歌人には明石海人という人もいます。

 

  不治の病と思われていたハンセン病ですが、結核の治療薬として開発されたプロミンという薬がハンセン病にもよく効くことがわかってから、この病気は不治の病から完治する病気へと変化してゆきます。1943年頃に開発されたプロミンは、1947年頃にはハンセン病の療養所でも治験が開始され、翌年頃から各地の療養所でプロミン予算獲得運動が始まります。

 

  明治~昭和の俳人の多くがそうであったように、石田波郷もまた結核との闘いの中で多くの句を残しました。彼が1950年に発表した「惜命」という句集の中に、「プロミン予算獲得運動」という前書きでハンセン病の療養所に関する句が載っています。

 

      黒き森の冬の癩者等食絶つや

 

 また「癩園の籬」という前書きで幾つかの句が載っています。

 

          けふも来し癩の籬外の西日の道

      西日の道柊籬の内外に 

      癩夫婦西日のトマト手より手へ

      全癩園地の涯までも夕焼けたり

      蜩の癩園西に影絵なす

 

  田上菊舎様、ハンセン病の患者がプロミンを求めて闘っていたときに、石田波郷もまた結核患者として胸の病と闘っていたのです。句集「惜命」の中にはその多くの闘いの句が載っています。

 

        たばしるや鵙叫喚す胸形変

       麻薬うてば十三夜月遁走す

       七夕竹惜命の文字隠れなし

 

 何度も身を切り裂く手術をしながらその痛みや苦しみから生まれ出た句です。ハンセン病の元患者の方々も己の運命や差別の痛みや苦しみと闘いながら生きて来られました。その深い闇を私はとうてい知る得ることはできませんが、誰にもそれぞれ闇はあり、差別・被差別意識はあると思います。私もまた己の運命を引きずりながら(あるいは引きずられながら)、今しばらく生きて行かねばなりません。多くのことに挫けそうになったとき、私は貴女の句をくちずさみます。

 

                    白菊や染たがる世の中をぬけ

    

(平成29年5月31日)

田上菊舎様

 先日、アメリカの南カリフォルニア大学に勤めるレベッカ・コルベットという女性が菊舎の里を訪れました。彼女は数年前に訪れたクラウリーさんの知り合いで、クラウリーさんの紹介で数日我が家にてお世話することになりました。

 

 クラウリーさんは俳諧を通じての貴女を研究対象にしていますが、レベッカさんは茶の湯を通じての貴女を研究対象にしています。2014年には、日米女性ジャーナル誌に「江戸時代における茶人のアイデンティティーの創造:太田垣連月と田上菊舎」という論文を載せています。彼女は茶の湯大好き人間なのです。

 

  レベッカさんは、メールで前もって自分がベジタリアンであることを連絡してくれていました。ベジタリアンという言葉は知っていましたが、実際にベジタリアンの方に会うのは初めてです。その上小麦アレルギーもあるということでした。ご飯や卵・豆腐・チーズなどは食せるということなので少し安心して到着を待ちました。

 

  ベジタリアンの方に対処するため、インターネットでいろいろ調べてみました。するとベジタリアンにも数種類あって、ヴィーガン(動物肉・魚介類・卵・乳製品がすべてだめ、野菜のみ)やラクト・オボ・ベジタリアン(動物肉や魚介類はだめだが、卵と乳製品・野菜は食せる)やラクト・ベジタリアン(乳製品と野菜は食せる)、オボ・ベジタリアン(卵と野菜は食せる)などがあるそうです。ちなみに、ベジタリアンという言葉は、野菜のベジタブルを語源とするのではなく、ラテン語の活力のある、生命力に満ちたという語源からきているそうです。

 

  レベッカさんはラクト・オボ・ベジタリアンということで、野菜や卵や乳製品は大丈夫だそうです。ただ、プラス小麦アレルギーがあるのでかなり食材の範囲は狭くなってきます。そば粉や大麦や米などは食べられます。今回萩の街に行ったときにも蕎麦屋に入ったのですが、十割そばを美味しそうに食べていました。

 

  田上菊舎様、レベッカさんは貴女の茶の湯に大変関心を持っています。貴女の使った萩焼の茶碗や茶杓、中村宋哲作の黒漆棗などの道具類は彼女にとっては垂涎のまとです。下関の空月庵で催した茶会の資料などのコピーも顕彰会の会長からいただいていました。茶道の作法にも詳しく、わざわざアメリカから着物一式をトランクに詰めて来日しています。着付けも自分できます。

 

  田上菊舎様、私の夢が少しずつ実現に向かって歩み始めています。貴女を世界に知らしめるということ。まずは「田上菊舎、太平洋を渡る!」ということ。今回顕彰会の会長さんたちと歓談したときに、アメリカから貴女を訪ねて来るばかりでなく、こちらからもアメリカに出かけて貴女を紹介しなくてはという話になり、レベッカさんも大学に帰ってそういうワークショップの企画を検討してみるということになりました。もしその企画が通れば、来春にでも「菊舎、太平洋を渡る!」という可能性もあり得ます。そのときには是非、貴女の掛軸をアメリカ大陸に上陸させたいと密かに思っているのです。

 

  三年前ホームページ「菊舎の里」を立ち上げ、同時に立ち上げた「Facebook Tagami Kikusya」でクラウリーさんと知り合い、今回レベッカさんとも知り合うことができました。「Facebook Tagami Kikusya」は外国向けに立ち上げたのですが、うまくクラウリーさんと知り合いになれて大変ラキーだったと思っています。日本でもまだまだ貴女の名は全国区ではありませんが、こうして外国でも貴女のことを研究している人がいるということは、私の夢の方向性は間違ってはいなかったのでしょう。

 

  田上菊舎様、私の持っている通行手形(パスポート)は来年の一月で有効期限切れとなります。貴女が江戸時代に俳諧行脚で大事に使用した通行手形なるものは、パスポートという名で現在も諸外国間では必要です。十年前に取得した私のパスポートは一度もスタンプの押されること無く、純白のまま机の中で世界を夢見ていました。はるかなる夢「菊舎、太平洋を渡る!」の実現のために、田植えが終わり次第、パスポートの更新をしておきたいと考えています。

 

          短夜や夢に手の生え足の生え    虚知

 

(平成28年12月10日)

 田上菊舎様

 「木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ」  加藤楸邨

 

 今日、五十半ばで亡くなった親戚筋の知人の葬儀に参列してきました。たまに会うくらいの関係でしたが、会えば季節の挨拶を交わし、それじゃまたと言って別れておりました。今年の春にもホームセンターで久しぶりに出会い、「老けたねぇ」としみじみと言われ、少々意気消沈気味で帰途に着いたことがありました。そのときのことを詠んだ句に「老けたねと呼びとめられる春の午後」というのがあります。その頃の彼はまだ元気だったように思われたのですが、今回急な訃報を知り驚きました。

 

  そういえば昨年も五十代の知人を見送りました。自分よりも若い世代の人たちの葬儀に参列するのは、心重たいものがあります。当然彼らの子供たちもまだ若い。今日の故人も来春娘さんが結婚される予定だったそうです。加藤楸邨の句ではありませんが、「いそぐないそぐなよ」という思いです。

 

 今日知った話ですが、彼が最後に息を引き取った病院のひとつ下の階に私の妻も入院しておりました。彼が亡くなる二日前に手術を受け、現在も入院していますが、近々退院の予定です。妻が手術を受けている間、私が手術室の前のソファーで手術が無事終わるのをじっと待っていた頃、彼も上階の病室で必死に生きようと頑張っていたのです。残念でなりません。

 

  田上菊舎様、悲しみの感情を言葉という理屈で表現することの難しさを痛感しております。まだ若くして亡くなった彼の無念さを、今日彼を見送った肉親の悲しみを、手術後に麻酔のとけたあとの妻の痛みを、私はまだ言葉として昇華するだけの技量を持ちえていません。今はただ、彼の無念さや彼の肉親の悲しみや妻の痛みに出来るだけ添っていてあげたい、そう思うことしかできません。

 

  気軽に始めた俳句ではありますが、今日のこの悲しみや悔しさをうまく十七文字に表現できない自分に対する苛立ちはあります。今は感情に添うことしか出来ませんが、いつか言葉として垂直に立ち上がることができるように己を深めていきたい、そう思っています。

 

  田上菊舎様、貴女から風の草鞋を一足頂戴したい。その草鞋を履いて、俳諧の世界を自由に旅をしてみたい。

 

                    オペ室の妻ふり返る十二月     虚知

 

平成28年10月2日)

 田上菊舎様

 「馴染めざる他郷に白きマスクして」

 「水濁すことなく金魚泳ぎをり」

 「明日なきが如く毛糸を編みつづく」

 「筵跡つきて故郷の餅届く」

 「寒林に入りて一人のときすごす」

    句集「寒林」 桂 自然坊(昭和63年7月1日  発行)より

 

  昔、著者から送って頂いた句集の中にある句を幾つか取り出してみました。 特に

 「筵跡つきて故郷の餅届く」という句が心に残りました。この句は、田舎住む母

 が都会に出ている子供のところに餅を送ったという句ではありません。送ったのは母

 親であり、受け取ったのは息子かもしれませんが、届いた場所は瀬戸内海にある小さ

 な島のハンセン病の施設です。著者はその施設に住むハンセン病の患者でした。

 

  ハンセン病患者はらい予防法によって強制隔離され、悲惨な歴史を残してきました。

 私にはその悲惨な歴史を綴るほどの資格はありませんので、それは他者に譲るとして、

 俳句を学ぶ者としてこの句集に触れてみました。正直言ってこの句集を送った貰った

 当時は俳句のはの字も頭になかったので、真剣にこの句集を読んだことはありません

 でした。最近俳句を学ぶようになって再びこの句集を開いてみたのです。

 

  縁あって著者と知り合い、ハンセン病患者の悲惨な人生をわずかながらでも知った

 からこそ、「筵跡つきて故郷の餅届く」という句の意味が多少ながらわかるような気

 がします。「水濁すことなく金魚泳ぎをり」という句も、隔離された施設の中でひっ

 そりと生きている人たちの様子を表しているのではないかと思います。

 

  田上菊舎様、十七文字の言葉の奥深くにあるものを読み取ること、その難しさを痛

 感しております。その人の人生を知らなければ読み取れない句も多々あります。自分

 の心の奥深くあるものを十七文字で表現することもまた同じく難しいものです。俳句

 の醍醐味は、私という個の思いを、確かにそうだなと誰の心にも感じられるよう普遍

 的に表現できたときにあるのではないでしょうか。

 

  「寒林」の著者の十七文字には、不条理な彼の人生の呻きが凝縮されています。

 彼らの十七文字に比べれば、私の十七文字のなんと薄っぺらなことか。俳人と呼ばれ

 る人々の句集を読むたびに圧倒され、何でもない言葉の取り合わせなのに、何故か不

 思議な感覚の中に私を落とし込んでいく彼ら俳人の凄技(すごわざ)に感服してしま

 うのです。俳句はよく一瞬を切り取る写真に例えられたりしますが、私には一瞬で竹

 を切り落とす武道の居合抜にも思われるのです。手に持つ道具はカメラではなく、命

 さえ落とすかもしれない真剣です。

 

            梅実掌に断種の時刻迫り来る    桂 自然坊  

 

     「菊舎の空」  https://kikusyanosora.jimdofree.com/ 

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